平成の軌跡

平成の怪物は「光栄」 ー 松坂大輔 - 

超高校級投手として甲子園を沸かせて「平成の怪物」と呼ばれる中日の松坂大輔選手に平成の記憶を聞いた。

―「平成の怪物」と言われることについて、松坂選手自身の受け止め方を。

 当時、今言われている印象と違っていたと思います。最初は気に入っていなかったような…。 今が気に入っているわけではないですけど。でも、その前に「怪物」というフレーズが付くのが江川(卓)さんだったので、 同じようにフレーズが付くことに関しては、何か喜んでいたと思います。誰が言い出したんですかね。調べたら分かるんですかね(笑)。

―「松坂世代」という言葉もある。

 何度も聞かれているんですが、本当に一番初めっていうのは高校野球で頂点に立てて、個人としてというよりチームとして立てて、結果的に僕の名前が付くことにつながって。 最初はやっぱり「平成の怪物」と言われたのと一緒で、一番上に設定されたということに喜びはあったが、時間がたつにつれて、自己紹介とかで使う人もいれば、 ひとくくりにされるのも嫌がる人も当然いるだろうなと思って、途中すごく嫌だなあとか、申し訳ないなあと思っている時期はありました。
 長く(プロ野球選手生活を)続けている間に、やっぱり「松坂世代」です、あいさつする時は使わせてもらってますとか、 最近よく言われるんですが、そこで改めて、まだまだ頑張らないといけないな、と思うようになりましたね。

―いわゆる「昭和55年会」。同学年に名選手が多い。ライバル心はあったか。

 ありましたね。僕は自分の年になって全国大会にも出て名前が出るようになったけど、 同い年で1年生の時に騒がれた選手もいるし、2年生で騒がれた選手もいるし、そういう選手たちを見て、いずれは自分も、 と思いながら練習してましたね。負けたくないと思って練習していました。

―東京都江東区出身の松坂選手が横浜高校へ進学した経緯を。

 知っている人は知っているんですが、僕は(当初は)帝京高校に行きたくて。 帝京高校のユニホームが好きで。中学3年の夏休みに入るころは帝京に行くつもりでしたね。
その後に中学の全日本代表に選ばれるんですが、そこでいずれ横浜高校でチームメートになるメンバーが何人かいて、 「お前がいれば甲子園に出られるから、横浜高校に来いよ」と言われて。当時、僕はその(彼らがいた)チームに勝てなかったので、対戦して。 全国的にも有名な選手たちだったので、こいつらが行くんだったら、それ(甲子園出場)も可能だろうなと。単純なんで。 それだったら横浜高校に行こうかなと思ったのが(志望校を)変えたきっかけですね。

―松坂選手を横浜高校に誘ったのは。

 小池(正晃)、常盤(良太)、小山(良男)。小池と小山はプロに行きました。あと、浜松の後藤(武敏)も横浜高校へ来ることが決まっていて、 すごいメンバーが集まるなあと。そのうちの一人に自分もなりたいと単純に思いました。 その後もちろん、高校の練習を見に行ったり、グラウンドを見に行ったりして最終的には横浜高校に決めたんですけど。
帝京高校からも誘いは来ていました。自分が行くと言えば、行ける状態でした。

―1998(平成10)年の甲子園春夏連覇。特に夏の大会でのPL学園との準々決勝、明徳義塾との準決勝、京都成章との決勝。あの3試合は多くの人が鮮明に覚えている。

そうですね、いまだに言われたり、聞かれたりしますね。

―特に準々決勝と準決勝は、あれだけの壮絶な試合。正直、試合中に「負けてしまうのでは」と思ったことはあったか。

それも聞かれたことありますが、シーソーゲームだったPL学園戦、0―6で負けていた明徳義塾戦、どちらも「負けるかも」というのはなかったですね。
 明徳戦は多分、(先発で)自分自身が投げていなかったからというのもあるかもしれませんね。後輩が投げてましたけど、感覚的に自分が打たれたわけではないので。 左翼を守りながら、不思議と負けている感覚はなかったですね。中堅手の選手とも(試合中に)点を取られている途中だったけど、 「まだいけるよね」と話していたのを覚えています。もう中盤過ぎて5、6点取られていたときだったと思うんですけど。
 チーム内でもそんな感じでしたね…。あ、でも分かんないな。そのときのみんなの気持ちを聞いたわけじゃないので。僕が投げていないから、 他の選手もそういう気持ちだったのか、ただ単純にまだ逆転できると純粋に信じていたのか。
 (渡辺元智)監督が一番「危ない」と思っていたかもしれませんね。檄(げき)を飛ばされたので。前の日にPLとあれだけの試合をして 「ここで負けていいのか」ということを言われた。僕らも当然負けるつもりはなかったです。

―では松坂選手の中で、あの3試合の中で一番思い出に残っている試合は。

いやあ、これがですね、それぞれ勝ったときの、試合の印象が全然違うというか、最後の3試合はそれぞれ思い入れが強い。 なかなか1試合に絞れない。その3試合は同じぐらい僕の中で強く印象に残っています。

―当時の横浜高校は「史上最強」なのでは。

画像提供元:時事通信社

どうなんですかねえ…。ここに来るまで、いろいろ強い高校見てますけど、自分たちが一番と思ったかなあ…。 投手力、守備力はナンバーワンと言ってもおかしくないと思うけど、打撃に関しては分からないですね。 甲子園になると全く打たないこともあるし、小池なんか全く打たなかった(笑)。本塁打は打ってますけどね。

―では、松坂選手が見た中でこのチームが史上最強というのは。

うーん、全部見たわけじゃないからなあ…。そうですねえ…。同じく春夏連覇したチームっていうのは、やっぱりいいチームだな、 強いチームだなと思ったのを覚えていますね。夏だけとんでもない強さを発揮したチームとかありますけど、やっぱり本当に強いと言われるチームは、春も夏も勝ったチームだと思うので。
 (僕らの)前に春夏連覇したチームは僕には分からないので、実際に見た人に判断してもらえばいいと思うけど、 比較の対象になるのは同じように春夏連覇したチームになるんじゃないかと思いますね。春限定とか夏限定とか言ったら、きりがないと思うので。

―その年秋のドラフト会議で横浜(現DeNA)、日本ハム、西武から指名され、西武に決まった。そのときの気持ちは。

(ドラフト会議前に)やっぱり(高校の地元である)横浜に行けるのが一番いい形なんだろうなと高校生ながら思っていて。 抽選になって西武になって思ったのは、どうしようかなと。初めに思ったのは。横浜以外なら社会人に行くって最初は思っていたので。 でも、ライオンズ自体は好きなチームだったので、どうしようかなって思ったのが最初じゃないですかね。

―入団1年目に西武ドーム完成。いきなり活躍し最多勝に輝いた。その中で「リベンジしたい」や、「自信が確信に変わった」などの「名言」があった。前々から考えていた言葉なのか。

画像提供元:時事通信社

さすがに勝ったときのコメントは考えていないので。うーん、何でしょうね。何かこう、自分が読んだものから何かがインスパイアされたというイメージもないですし。 何か、ふと「確信」という言葉に強くひかれたというか。自信を持ってプロ入りしてますし、 それがイチローさんを抑えたことで、ここでプロでもやれるという強い気持ちが生まれたのは確かですし、そこから出てきた言葉かもしれないですね。

―自然と出てきた。

  そうですね。何も考えてなかったです。

―「リベンジ」という言葉は当時あまり聞かなかった。

そうですね、「リベンジ」は、多分僕が格闘技とかを見るのが好きだったので、「やられたら、やり返す」じゃないですけど、そこから出てきた言葉だと思いますね。

―西武時代で一番の思い出は。

何だろうなあ…。いやあ、1年目のキャンプはすごかったですね、(ファンの)人が。

―「影武者」も出た。

あはははは、いまだに言われますね。谷中(真二)さんという年上の選手の方に(背番号18のユニホームを着てもらった)。 僕は「やめてください」とか言えなかったですし、後々になって谷中さんには本当に申し訳なかったと思います。やらされる先輩は絶対嫌だったと思うので。 いやあ、人がすごかったし、取材もすごかったです。

―その後、米大リーグへ挑戦。もともとメジャーへ行きたい気持ちはあったのか。

はい、思っていました。中学生の時、野茂(英雄)さんの活躍を見て、強く意識しましたね。それまでも、 何となく米国のメジャーリーグは一番レベルの高いところなんだというのは小学生のときから思っていて。いずれは行きたいなと思っていたんですけど、 強く意識するようになったのは野茂さんを見てからですね。

―米国から見て日本の良さとか、逆に日本はここがまだ遅れているなと思ったことはあるか。

野球では、ここが良くてここが悪いと思ったことはないですね。野球ではないですね。当然同じものとは思っていなかったし、ああやっぱりこういう違いがあるんだなって感じましたね。   でも逆にあれですね、米国のホテルとかレストランとかに行っている時に、日本の気遣いというか、サービスってすごいんだなと改めて思わされたっていうのはすごく思いましたね。  (米国は)はっきりしているというか、日本人って「本当はここは自分の仕事じゃないけど、でもここまでしてあげます」とかあるんですけど、 米国人は「私たちの仕事はここまでだから。ここから先は別の人間が来るから」みたいな。すごいはっきりしているなと。それはそれで分かりやすいなと思いましたけど、でも面倒くさいなとも思いましたね。

―野球での米国の一番の思い出は。

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やっぱり、移籍した1年目にワールドシリーズに優勝したことですね。最高の瞬間でした。

―ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)や五輪といった国際試合に日本代表として出場している。

僕は中学生のときに日本代表のユニホームを着させてもらって、そこから僕は着られることなら、いつでも代表に選ばれて、 「日の丸」を背負って戦いたいなと思い続けてきましたね。だから、何かの国際大会で、日本代表のユニホームを着られる機会があれば、 必ず着たいって思ってましたし、いまだに思ってます。

―これは聞かなきゃいけないんですけど、松坂選手にとって「平成」とは。

それ、あのー(取材)申請の紙を見たときに思ったんですけど、何て答えればいいんだろうって…。ほぼ「平成」を生きてきたんですもんね…。「平成とは」…。 僕としては、個人的なことですけど、うーん、やっぱりその「平成の怪物」って、やっぱりその時代の…。何て言ったらいいですかね。 (自分のニックネームに)元号が付く人って多分そんなにいないと思うので、そういう意味ではすごく光栄なことだったんだなって思いますね。他に(元号が付く人は)いるのかな。
  まあ、平成になって10年たって、僕がこう「平成の怪物」として…。だから、最初に付けてもらった人に感謝ですね。よく考えたら、すごいことだなって思いますね。
 そうだ、よく考えたら、自分で言うのも何ですけど、すごくありがたいフレーズを付けていただいたんだなって思います。何て言ったらいいのかな(笑)。
 たまたま僕に付けられちゃったからなあ…。「平成の怪物」…。他のジャンルでいるのかな。すごいことですね、すごいことだったんだな。
  当たり前のように言われてきましたけど、やっぱり平成がなくなるということを考えたときに、元号の付いたニックネームがあるっていうのは、すごいことだったんだなって思いますね。

―1980年生まれで、いわゆる「松坂世代」の野球界以外の方たちへのメッセージを。

画像提供元:時事通信社

 うーん…。あのー、先ほども言ったんですけど、同世代のお父さん、お母さん(になっている人)たちから、僕が(プロ野球選手を)続ける姿を見て 「(自分たちも)頑張ります」とか「応援しています」と言われるんですが、みんな一緒に頑張っていきたいというんですかね、 そう言ってくれる同世代の人たち、お父さん、お母さん(になっている人)たちとみんなで頑張っていきたいなって思いますね。

―高校の同級生とはけっこう集まるか。

集まります。東京に行く機会があれば飲みますし。一緒にご飯食べて飲んだりとか。

―全員で同窓会とかは

 それは(頻繁には)ないですけど、それは年に一回、集まれる人で集まろうと言って14、5人集まって、ご飯食べて飲むこともありますね。

―当然話題は「あの夏」のことか。

   毎回、一緒ですね(笑)。毎回一緒です。毎年同じ話をしているなって、集まると毎年みんなで言ってます。やっぱり高校時代の話が多いですね。あとは、けちょんけちょんに僕が言われます。

―具体的には何と。

   「しっかりやれ」ということです。「俺たちの代表だろ、しっかりやれ」って言われますね。(了)

松坂大輔選手
松坂 大輔選手(まつざか・だいすけ)中日投手。横浜高で甲子園春夏連覇。99年に西武入りし、3年連続最多勝。07年に米大リーグ・レッドソックス移籍。 メッツを経て15年にソフトバンク入りし、日本球界復帰。18年から中日でプレー。38歳。東京都出身。(了)
【このインタビュー記事は時事通信社が2018年4月と5月に配信した記事を基に再編集したものです】
掲載画像提供元:時事通信社